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今月の法話 2022/11/01

宗務所

11月法話 『一挨一拶(いちあいいっさつ)』

11月法話 『一挨一拶(いちあいいっさつ)』

最近、お寺の前などにいると通りがかった小学生が元気よく「こんにちは~!」と挨拶をしてくれます。こちらも「こんにちは」と返して、心晴れやかな光景であると同時に少し思うところもあります。
それは、かつて自分が小学生だったころは自らすすんで同じように近所の人や他人に挨拶をしていました。そしてそれを褒められたりして気分よくなっていました。もちろん褒められたい一心のみでやっていたわけではなく、やはり挨拶を交わすことによる心地よさからやっていた部分が大きかった気がします。
それがいつからか大人になるにつれ「この人は挨拶返してくれるだろうか」とか「この人は挨拶すべき人物だろうか」など余計な思いを巡らせるようになり、遂には小学生に先手を取られるまでになってしまっていた自分に気づかされました。

『挨拶』というのはもともと仏教にルーツのある言葉で禅僧の間で師匠が弟子と押し問答をしてその者の修行や悟りの深さを試す『一挨一拶(いちあいいっさつ)』という言葉からきたものであります。『挨』も『拶』も『おす、せまる』という意味がありお互い心の様を押し合い、推し量ることを指します。
現在では「おはよう」「こんにちは」「お疲れ様」などさまざまな挨拶の言葉があり、それは一見儀礼的な動作ではありますが、人と人とが触れ合い心を開くための第一歩であることに違いありません。

最近のニュースで、若者たちの間で挨拶の不必要性が語られているという記事も目にしました。お互いに視認していれば挨拶がなくても困ることはない、という認識だそうですが勿論反対意見も多数あるそうです。また「SNSなどのインターネット上でも挨拶が重要だ」というマナーが議論される話も度々でており、いずれにしてもやはり人々の生活から挨拶は切り離せないなという印象もうけます。

人は皆大人になり『分別』を身に付け自分と他人を分け隔てるようになると、自然な挨拶ができなくなるのではないのでしょうか。今一度、自分も含め多くの大人が忘れている小さい頃に感じた曇りなき挨拶による心地よさを今一度思い出して実践すべきだと感じました。
“他人の関係”が増え続け、人間関係のストレスが増えている現代社会において薬となり得るのは、案外無差別的で儀礼的な挨拶の習慣なのかもしれないと感じる昨今です。