10月の法話 「喫茶喫飯」(きっさきっぱん)
気が付けば段々と肌寒い季節となってまいりました。秋は「食欲の秋」と言われるように食欲も増加し、旬を迎える魚や野菜、果物などがたくさんあります。皆さまも日々の食卓の中で秋を感じていることと思います。
コロナ禍になってから、「黙食(もくしょく)」という言葉がクローズアップされるようになりました。
皆さまもこの「黙食」という言葉を今までに見聞きしたことがあるのではないでしょうか。意味は読んで字のごとく、「黙々と食べる」ということであります。
食事中の会話を控え、飛沫感染のリスクを減らすことができるということで、新型コロナウイルス感染防止策の1つとして、テレビのニュースや新聞にも取り上げられ、学校や飲食店等でも「黙食」が取り組まれたりと、コロナ禍に世間で広く浸透した言葉と言えるのではないでしょうか。
曹洞宗の修行道場での食事も「黙食」であります。食事は坐禅堂でいただくのですが、この坐禅堂は「三黙道場(さんもくどうじょう)」と言われる、私語を禁止された3つの場所の内の1つ(その他は風呂場とトイレ)に定められています。その定めの為、食事の際は「黙食」であり、なお且つ食事する者も給仕する者も余計な物音を立てて、他者の食事の妨げにならぬように細心の注意を払います。
曹洞宗では、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)[日常の生活]のあらゆる場面の1つ1つをおろそかにせず、丁寧に行じていくことを重んじています。「三黙道場」の3ヵ所は毎日使用する場所なので気が緩みがちになりますが、日常生活のすべてが修行であり、いかなるときも気を抜かずに行じてゆく。食事をいただくことも大事な修行の1つになるのであります。
大本山總持寺の御開山瑩山禅師(けいざんぜんじ)の遺された言葉に「喫茶喫飯(きっさきっぱん)」(茶(さ)に逢(お)うては茶を喫し、飯(はん)に逢うては飯を喫す)があります。
「お茶を出されたときにはお茶をいただき、ご飯を差し出されたならばご飯をいただく。」、お茶をいただくときには雑念を交えず余計なことは考えないでお茶をいただくことだけに集中する、ご飯をいただくときも同様にご飯をいただくことだけに集中する、ということであります。
例えば、
ご厚意でお茶を出してもらったときに、「お茶よりコーヒーが良かったなぁ」と思ったり。
夕食を取っているときに、明日の仕事のことを考えたり、食事よりも家族や友人との会話に夢中になったり、テレビ番組の内容にのめり込んでしまったり。
このようになってしまえば、本来すべき「味わう」という行為を疎かにしていることになります。
物事を相対的に考えたり、他のことに気を取られ注意散漫になることで、煩悩や執着など心を乱す様々な要因に繋がります。
しっかりと「味わう」ことで、今いただいている食物に向き合うことができ、大地の恵みに対し、その食物の生産者に対し、また調理した人に対して、感謝の念も自然と生まれてくるものです。
「喫茶喫飯」はお茶やご飯をいただくときだけに限ったことではなく、掃除するとき、料理するとき、入浴するとき、日常生活のあらゆる場面に当てはまります。
そのときすべきことをおろそかにせず丁寧に行じていく。まずは私たちが毎日行う食事、目の前の一杯・一皿に集中し「味わう」ことから始め、「黙食」をきっかけに瑩山禅師の「喫茶喫飯」の心も味わってみませんか。
宗務所