1月の法話「精進 ―進むことに“全集中”―」
幸多き新春をお迎えのこととお慶び申し上げます。令和2年は世界中が「新型コロナウイルス」に翻弄された一年でした。そんな中、年末にはイギリスやアメリカでワクチンの接種が始まるなど、感染防止対策に明るい兆しが見え始め、顔がほころぶのを感じました。多くの人々の努力によって、事態は少しずつ、そして、着実に快方に向かっています。
―「どんなに達成困難と思われる一大事も、目標達成に向けて毎日を過ごせば、必ず実現できるときがやって来る」―仏教の開祖・お釈迦様が80歳の生涯を終えんとしていたとき、周囲に集うお弟子様たちにおっしゃったことです。これが「精進」です。曹洞宗・大本山永平寺の開祖・道元禅師様が「精(しょう)にして雑(ぞう)ならず、進んで退かず」(正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)・八(はち)大人(だいにん)覚(がく))とお示しになったように、『精進とは、「精(混じりけのない純粋な状態)」にして、「退かずに、進むことである」』ということです。どんな道でも、その習得に困難はつきものですが、そんな困難に直面したとき、我々は「自分には無理だ」などと思い込み、道を歩むのを諦めてしまいがちです。しかし、そんな決めつけによって、目標が達成できなくなるのも確かです。大切なことは、そうした我が身を道から退かせてしまうような思い込み・決めつけを捨て、進むことに“全集中”することなのです。
そんな「精進」を、お釈迦様は「少水の常に流れて、則ち能く石を穿つがごとし。」という実に明快な喩えを用いて、お示しになっています。「どんなに少量であっても、毎日、水を流し続けていれば、硬い石でも変形したり、割れたりするときがやってくる。」というのです。
若かりし頃、あるお寺の檀信徒の方から「禅寺はきれいに掃除されていて当たり前である。」と言われました。これが私にとっての「座右の銘」となり、多忙な毎日の中でも境内の掃除をする時間を取るように心がけています。ほんの30分でもいいから境内の掃き掃除をすれば、その分、お寺はきれいになります。やるとやらないでは雲泥の差です。このことは万事に通ずるような気がします。受験勉強も然り、スポーツや芸術の世界も然り、どの世界に目を向けても、目標の達成に向けて進んでいけば、いつか必ず達成できるときが訪れることに気づかされます。
今年も新型コロナ始め、様々な困難が待ち受けていることと思われますが、自分たちの歩む道を退くことなく全集中で進むことによって、明るい毎日が訪れるような気がします。硬い石に少水を流し続けるが如き「精進」の毎日を過ごしていくことを願っております。
宗務所